運命(さだめ)の糸

2021年7月11日

 高校生になった時、祖母がギターを買ってくれました。 洋裁師の母が厚手の布でケースを縫ってくれ、見せびらかしに学校へ持って行ったら、「なんか演ってくれんね」と同級生たちに請われて、その頃流行っていたブルーコメッツの『ブルーシャトー』を教室で弾語り、やんやの喝采を得ました。 そのころ芸能界はバンドブームで、グループサウンズや、フォークグループがお茶の間のアイドルたちでした。  同級生のフォークバンドができました。 女学生のパーティーやら主催者不詳のミニコンサートやら学校の文化祭やら、どこででも演奏しました。 唐津に有名バンドが招聘された時は、前座出演もしました。博多にも遠征しました。お金持ちの豪邸でのライブで、同世代の男子の誕生パーティーでした。 共演の高校生エレキバンドの全員が、背広にネクタイでバッチリキメていたのには驚きでした。 そこで後に『チューリップ』のメンバーになった安部俊幸くんと知合いになりました。その頃はドラムを叩いていました。マッシュルームカットにネクタイ。カッコ良かったです。安部くんは僕と同じ1950年生まれで、すぐ意気投合。 その後、博多湾に浮かぶフェリーでのライブでも共演しました。 安部くんとは、80年代にあるテレビ局のパーティーで再会しました。僕のことは覚えてくれていて、会場での立ち話で別れましたが、2011年の春インドで亡くなりました。 大学進学で上京して唐津の寮に住んでからも、ギターばかり弾いていました。 夏休みには唐津で運転免許を取って、祖母が買ってくれたスバルの軽自動車であちこち走り回りました。運転は爽快です。 秋になってから、自分のギターの技量に満足ができず、大学の軽音楽部(以下軽音)のカントリーバンドのドアを叩くことになります。 同級生で軽音のジャズバンドでドラムを叩いている梅男くんに相談したら、カントリーの鈴木さんを紹介してくれることになりました。 この鈴木さんは卒業後ニッポン放送に就職され、後年いろんなお付き合いとなります。「何か演ってみろ」と言われて、部室の外のキャンパスの隅でギターを弾きながら歌って、「お前さんのギターは鳴っていないな。ギターのボディが振動してないんだよ」と厳しい指摘を受けましたが、とりあえず入部が許されました。  当時の大学公認の学生バンドは体育会系そのものでした。隣の部室は応援団で、「オッス!」と元気のいい声が響き伝わってきます。先輩は絶対的な存在です。また一年生は先輩のレギュラーバンドのローディをやらねばなりません。重労働です。同級生たちは4月からの入部ですから、僕は8ヶ月分得をしたことになります。そのことで同級生たちからはイジメを受けます。 同級生メンバーはほとんどが入部してから初めて楽器を手にした人たちばかりで、フィドルやペダルスティールをいきなり演らされて大変だったと思います。
 アコギを弾きながらヴォーカルを担当するのは、既に二人が決まっていたので、僕は空いていたエレキギターを担当することになりました。機材は高嶺の花のフェンダー製の紅いムスタングと、やはりフェンダーのスーパーリバーブのアンプがセットで、エフェクターは無くアンプ直結のドライなサウンドでした。「聴いて、盗め」という徒弟制度で、先輩たちは何も教えてはくれません。 そんな時期にメンバーのあいだで、「学内にすっごくギターの上手いやつがいる」という噂がありました。後年判ったことですが、それがギタリストの徳武弘文さんだったようです。 中途入部の僕は同級生たちとしっくりいかないまま、大学が学生運動でロックアウト。部室もキャンパスの外の楽器や機材を保管するスペースだけ。暮れに合宿もあって、正月にも帰省できませんでした。 春になってエレキギターの上手い一年生が入部してきて、僕の居場所は無くなりました。 僕は意識していなかったけど、水面下のレギュラー争いから敗退していたのでした。
 部室を去る日、僕の傘が見つかって、その日は初夏の晴天でしたが、僕はそれを持って新宿から小田急線。 成城学園前から乗車して、吊革を持つ髪の長い女性の指に、ガスの締め金具を着色した指輪が目に留まって、「この人はアーチストかもしれない・・・」となんとなく思いました。 百合ヶ丘に着いたら急に土砂降りになって、駅舎に佇んでいる彼女を、部室から持ってきた傘を差しかけてアパートまで送りました。そのことが糸口となり、新たなドラマに繋がってゆきます。 二年目の夏休みを唐津で思いっきり「青春」して、東京に戻って三人のフォークロックバンドを組みました。メンバーのひとりが安部くんの所属していたエレキバンドのリーダーでした。 そんな彼が「ギターが上手くなったね」と褒めてくれました。 軽音は僕にとって過酷な環境だったけど、何かを「盗めた」のかもしれません。 やがてバンドのプロモーション映画を作ろうということになりました。ビートルズの『ハード・デイズ・ナイト』のような・・・。 当時は家庭用ビデオなんて無く、製作は八ミリフィルムです。 僕にそんな映像知識はなかったので、カメラを回せて演出や編集のできる人を探しているうちに、洋画輸入のアーサー・デイビス社に行き着きました。 そこは百合ヶ丘で出逢った女性の友だちが務めている会社でした。僕の運命は劇場的に変化することになります。
 後年になって徳武さんのアルバムをプロデュースすることになりました。 学生時代に軽音で噂だった伝説のギタリスト。歳月を経てやっと糸が繋がったのでした。二人で海外遠征をしたり、ライブハウスや『きのこ食堂』でデュオを演ったりもできました。軽音での憂うつが晴らせました。
 運命の糸はずっと繋がっていて、どんな辛い経験も無駄ではないのです。これからも意外な場所に、運命の糸口が覗いているのかもしれません。

その他

Posted by hide-san