レイテ戦記

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 レイテ島はフィリピン諸島に属する島々のひとつです。
 サトウキビとココナッツが特産のいたって平和な南の島ですが、かつてここで日本軍と米軍の苛酷な戦闘が展開されました。
 僕がサラリーマンだった1970年代には、戦争映画やドキュメンタリー番組が数多く製作されていました。
 そんな戦争映画によく使われたのが、戦時中に撮られた記録映像です。
 戦争記録映像はモノクロがあたりまえでしたが、なんとアメリカはカラーで撮影していました。
 僕が製作したスーパーエイト版ドキュメンタリー映画『零戦』の販売が好調で、次回作は『戦艦大和』を作りたいと提案してみたら、社長さんは快諾してくれて、さっそくワシントンDCへ出かけました。
 国防総省で取材の許可を取ると、アメリカ人の編集マンを雇って、レンタカーでペンシルバニア州ストラウドタウンシップのトビハナ陸軍補給基地へと向かいます。
 戦時の記録映像資料はそこに保管されていました。
 補給基地の近くのホテルに宿をとって、くる日もくる日も資料漁りとフィルム試写の繰り返しです。
 膨大なリストカードをめくってゆくと、カラーの映像はベリリュー島の上陸作戦辺りから終戦に至るまで保管してありましたが、沖縄戦の関連をいくら調べても”大和”に関連する映像はついに発掘できませんでした。
 でも貴重なカラーの記録映像をたくさん持ち帰ることができました。
 帰国するとすぐに映画会社から呼び出されて、待ち合わせの帝国ホテルに行くと、
「山下耕作監督で戦争映画を製作するので、参加して欲しい」
という重々しい依頼です。
 とりあえず京都は太秦の撮影所を訪ねると、山下監督は特撮監督たちと共に、にこやかに僕を迎えてくれました。
 そして
「レイテ海戦をやりたいんです」
というのです。
 レイテでは米軍の上陸を阻む陸軍守備隊を支援するために、日本軍はありったけの航空兵力を投入しました。
 ところが米軍側はレーダーの探索システムや暗号解読が驚異的に進化しており、出撃した日本の戦爆連合航空隊は、途中で敵の艦載機の待ち伏せに合って、かたっぱしから撃墜されてしまうのです。
 やっと敵の機動部隊にたどりついても、上空には雲霞のごとき直援戦闘機、海面に降下すれば辺りが真っ暗になるほどの対空砲火のために、日本の攻撃機は次々に海に堕とされてしまい、出撃した航空兵力のほとんどが未帰還機となるのです。
「どうせ還って来れないのなら、爆弾を抱いて敵の艦船に体当たりをする」
という、もはや戦術とは言えない思考が日本側には芽生え始めたのです。
 いわゆる”特攻隊”です。
 その苦悩の決断をしたのが大西滝次郎中将といわれていて、映画では鶴田浩二さんが演じます。
 山下耕作監督のチームに記録映画担当として僕が加わって、映画がクランクインしました。
 山下監督が46歳で、僕が24歳でした。
 太秦の撮影所ではテレビ時代劇も撮られていて、喫茶室で特撮監督たちと打ち合わせをしていると、カツラと衣装をつけた高橋英樹さんがひょいと入って来たりしていました。
 任侠映画もたくさん撮られていたので、おっかないお兄さんたちも歩いていました。もちろんみなさん、普段は優しい役者さんたちですけどね。
 山下耕作監督も時代を代表するベテラン監督というより、どっちかと言うと大学教授のような物静かな感じの紳士でした。
 山下耕作監督の代表作は、三島由紀夫さんが絶賛した『総長賭博』と言われています。
 いつだったかその話を若い人にしたら、
「ヘェ~、バクチって朝早くからやるんですね」
と感心していました。
「いえ、あのね早朝賭博ではありません」
 撮影所のみなさんはなぜか僕のような若造を、とても大切にしてくれて高級ホテルをとっていただいたり、老舗料亭で美味しい京料理をご馳走していただきました。
 トビハナ補給基地では泥水のようなコーヒーを啜り、食堂ではレーション(野戦食)のようなものばかり食べたりしていたのがウソのようです。
 でもね、僕はそれ以来そんな米軍基地のコーヒーを好きになってしまいました。
 コーヒースタンドに寄りかかって、米兵さん達とよもやま話をするのも愉しいひとときでした。
 撮影が進行すると監督の注文もあって、新たに取り寄せなければならない映像もでてきます。
 そのたびに撮影所からワシントンDCに国際電話をかけさせてもらったりもしました。
 テレックスが一般に普及するのは、もう少しあとのことです。
 ある日特撮監督から、
「予告編用に特撮部分の撮影をするので、来てください」
と言われてスタジオに入ると、青空を背景に天井からプラモデルの零戦が数機吊り下げられていて、クレーン上にカメラがセットされています。
 プラモデルはもちろん飛ばないので、クレーンに取り付けたカメラを煽るように動かして、さも飛んでるように撮影するというわけです。
「ヨーイ」
の愛合図とともに、助監督のみなさんが脚立に乗ってそれぞれの零戦に取り付き、スイッチと入れるとプロペラが廻りだし撮影開始です。
 ところがピアノ線で吊り下げられた零戦が、まったりと前後に揺れ始めました。
 そう、プロペラが廻るとプラモデルとは言え、推進力が発生するからね。
 クレーン上のカメラマンはじめスタジオに居たスタッフ全員が、まるで振り子のように前後に揺れる零戦を茫然と見つめていました。
 そんなわけで、撮影は一時中止となりました。
 でもね、あとで予告編をみたら、それらしく仕上がっていましたから、映画はやっぱりマジックです。
 ある夜遅く監督室を覗くと、山下監督がひとり思案中で、
「米軍側から撮られた記録フィルムと特撮だけじゃ、どうもレイテ海戦は表現しきれないんだよね」
と悩んでおられました。
 これから実物大の零戦を一機作るにしても、大変な費用と時間がかかります。
 この仕事をお引き受けするにあたって、大急ぎで読んだ大岡昇平さんの『レイテ戦記』には、日本の艦船の防空部隊と米軍艦載機との絶望的な戦闘が詳しく書かれていたので、
「艦上の対空機関砲座のセットを作られて、そこでの戦闘シーンを役者さんに演じていただくのはどうでしょう?」
と提案してみました。
 想えば大御所をまえにして、畏れ多いことです。
 監督は頷きながらメモをとられていましたが、完成した映画の試写を観たらそんな風になっていたので、僕のほうがびっくりしました。
 初号試写で鶴田浩二さんと会った時、僕にこう言われたのを憶えています。
「オレは右翼だからね」
その表情は和やかだったので、たぶん彼独特の冗談だったろうと思います。
 きっと長髪で小生意気な僕を、”米帝の手先”あるいは”全共闘くずれ”と思われていたのかもしれません。
 もしこの映画に興味を持たれたら、レンタルビデオで『あゝ決戦航空隊』を探してください。
 クレジットタイトルには、墨の名前もでています。
 2013年7月5日脱稿

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Posted by hide-san