鏡山

九ハ会長からは恫喝された上に、「私が一番好きな人々は中国人です」などとついつい本音をコメントされました。流すべく血液はもう一滴も残っていないのに、コロナの感染者数は増え続けて、国民からも政党からも見放される結果となりました。
夏休みも外出を制限されたままもう終わりです。最近では子供たちの自主性を尊重して、あまり宿題を出さない学校もあるそうですが、僕らの時代はうんざりする程の大量のドリルやら工作やらを抱えて二学期初日の登校です。馬鹿でかい大作もあれば、僕のようにチマチマした小品もあって子供の個性は様々です。
戦後生徒数の急速な増加に伴って増築を重ね、ムカデを並べたような木造校舎の窓を全開すれば、心なしか秋らしい風が流れ込みます。あの頃は季節の変わり目がはっきりしていたような気がします。少年特有な感傷かもしれません。校庭の片隅にアブラゼミが仰向けに転がっているので、触ろうとするとジジジと鳴きながら飛び去り、なんだか騙されたような気がしました。
下校時は別の路を通ります。醤油工場の中を横切るのですが、大豆を発酵する強い薫りがいまでも鼻腔の記憶として残っています。その先の小川に沿って坂を上るとやがて古い石段となって、小さなお社があります。そのお社の裏手の崖に臨めば、高島・鳥島を配する唐津湾が一望できます。当時飼っていたポチを散歩させるときは、お社から実業高校の校内に入ります。広い芝生の運動場に山羊さんもいて、ポチはゴロゴロ寝転がって至極満足です。
元の路に戻って暫く歩くと、立派な石の門構えのお屋敷があって、そこがそろばん塾でした。初老の先生は教え方が丁寧で人気があり、やがて生徒も増えて、教室も二階の小部屋から、庭に面したお座敷に昇格しました。先生がご多忙の時はお嬢さまの代行です。目鼻立ちがくっきりとした美人でしたが、老先生と違い教え方が厳しいので、みんな恐懼していました。谷崎潤一郎の「春琴抄」みたいに算盤で叩かれたりしてね。僕は出来の良い生徒だったので、そんなことはありませんでした。
スタンリー・キューブリック監督の「フルメタル・ジャケット」の冒頭部分みたいに、電気バリカンで丸坊主にされて中学へ入学です。公立中学校はめちゃヤバい所で、ヤクザみたいな生徒がうようよしています。学生服の裏地に唐獅子牡丹を縫い付けて、両手をポケットに突っ込んでガニ股のヤクザ歩きで闊歩している先輩もいます。これでは命がいくらあっても足りないと、直ぐに猛者(モサ)揃いの陸上部に入部しました。攘夷浪士に斬られたくなくて新選組に入隊するようなものですが、その方がまだ大義があるような気がしたのです。
運動部は多かれ少なかれ旧陸軍の内務班のような体質を受け継いでいて、理由もなく殴られたり、「たるんどる」という理由で腕立て伏せを百回やらされたりします。半年もしないうちに新入部員は半数以下になってしまいます。そして体罰の痛みに鈍感になってしまつた猛者(モサ)が残るのです。
二年生になると、教室もクラスメートも変わります。担任は国語の先生で、映画「かもめ食堂」の女優片桐はいりさんに、ラムネ瓶の底のような近眼の丸渕メガネをかけさせたような女先生です。
この片桐先生は生徒思いの優しい先生で、僕などは何度も職員室に呼ばれて「ご指導」を受けました。女子生徒をからかって、その子が泣きながら早退した時は、職員室が暗くなるまでバッチリ絞られました。
片桐先生に繰り返し繰り返し教えられたのは「授業をちゃんと聴きなさい」ということでした。それまでの僕は注意散漫で、いつも漫画を描いていました。生活も夜型から昼型に切り替えていきました。試験前日の一夜漬けもやめました。すると洋裁室で勉強する事になりますが、その内ラジオの音もお針子さん達のおしゃべりも気にならなくなりました。中間・期末テストの成績も上がり始めました。
鏡山は虹ノ松原と並ぶ唐津の名所です。万葉の昔、朝鮮へ遠征する夫との別れをはかなんで、松浦佐用姫が領巾(ひれ)を振ったという伝説から、鏡山はひれ振りの峰とも呼ばれています。子供の頃から、大変お世話になりました。標高は二八四メートルですから子供の足でも登れる簡便さが、遠足からデートまで重宝されています。今は麓から一、八00段の石段ができたり、頂上には佐用姫さんの銅像が建った上 に、テレビの中継所やアンテナが乱立して、賑々しくなっております。麓に広がる水田は、春の休耕シーズンには其々の区画に菜の花か蓮華草が植えられ、それはそれは見事な黄色と赤紫の市松模様でした。現在は複合商業施設が進出したとも聞いています。
この鏡山を舞台に決闘騒ぎが持ち上がりました。教室の後ろがざわざわしているので、学級委員長に聞いたら、「喧嘩みたいだけど、副長、あんたが納めてください」と近藤勇のようなことを言います。くんずほぐれつのグループを分けると、「某日鏡山で決闘して決着をつける」と存外真剣です。僕もつい悪乗りして、「武器はあるのか?」と聞けば、「先祖伝来の鎖鎌があるから持ってきた」という生徒がいます。鎌の柄の方に鎖、その先には分銅が付いていて、これをぐるぐる回転させて敵の刀に巻き付けて動きを封じ、敵をじりじりと引き付けておいて鎌でグサリと胸をえぐって決着をつけるという、極めて陰鬱な武器です。宮本武蔵がこの鎖鎌の名手と言われた宍戸梅軒と試合をした時は、梅軒が頭上で分銅をグルグル回し始めたら、武蔵は小刀を抜いて二刀流とし、相手のテンポに合わせてグルグル回し、小刀を相手の胸をめがけて投げて、梅軒が算を乱したところを「エイ」とばかりに踏み込んで一刀のもとに斬り捨てました。以後鉄砲が合戦の主役となっていくなかで、鎖鎌は淘汰されていきました。だって戦場であんなものをグルグル振り回して啖呵を切っていても、鉄砲でズドンと狙い撃ちにされたらそれっきりですよね。
一方クラスの決闘騒ぎは一向に収まらず、次の自習時間をホームルームに切り替えて、この際じっくりと討論しようということになりました。近藤局長に司会進行役をお願いすると、「そいは、副長の良かごつお願いしもす」とこんどは急に薩摩の西郷どんのようなこと言います。喧々諤々の議論の末、決闘場所は鏡山。巌流島という提案もあったけど、遠いという理由で却下。紅白に分かれて対峙する。紅白其々、入手可能な武器を黒板に列挙する。梅軒くんの鎖鎌。現物あり。日本刀。槍。薙刀。短刀。十字手裏剣。防空壕で発見された手榴弾。竹槍。下駄(鼻緒に手を入れて殴る)。ここまで黒板に書きだすと、もうファンタジーの世界で、こんな喧嘩がいかに危険で意味のないものか、男子生徒たちは静かになってしまいました。そこに絶妙のタイミングで女子生徒たちから、「お弁当を持って鏡山に行って、そこで輪になって話し合いをしましょうよ」との和平調停案が提案されました。クラス全員がそちらに傾きかけた時、片桐先生が鬼の形相で教室に飛び込んで来ました。黒板いっぱいに物騒なことが書き連ねてあるし、教壇の上の鎖鎌が物的証拠となりました。誰か議論が中途半端な段階の時に、職員室にご注進に走ったようです。片桐先生に片耳を引っ張られて、職員室の前の廊下に見せしめの正座をさせられました。暫くして気が付いたら、委員長が僕のとなりでもっそりと正座をしておりました。
二〇二一年九月九日 脱稿
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