渋谷暮色

 渋谷はすっかり変わってしまいました。渋谷はその名の通り深い谷間に中心部の渋谷駅があって、まるで古代ローマの闘技場のように、周りを商業施設が取り巻いています。僕が上京した1968年には渋谷から二子玉川を走った路面電車が取り外されて、高速道路の高架線が賑やかに建設中でした。地下は新玉川線の工事が進んでいました。64年の東京オリンピックを無事終えて、日本人が根拠なき自信に溢れていた頃です。日本最古の地下鉄銀座線が、東急デパートの洞窟に収まるところが終点でした。商業目的で駅が造られた為に、表参道駅までは地下を走っていたハズの電車がまるでイリュージョンのように、地上に這い出すのでした。鉄橋部の強度に不安があったのか、渋谷の雑踏を見下ろしつつまるで小枝を這う毛虫のように、のそのそと歩廊に納まるのです。その何となくのんきな風情が、僕が渋谷が好きだった理由です。

 渋谷に住んだ時代があります。桜丘のその古い集合住宅は、渋谷らしく坂道に建っていて、入口は三階なのにベランダではなく庭がありました。やはり先住者たち(野良猫)が住み着いていました。最初は子猫が一匹。

 「どうしたの?」と声を掛けると、小首をかしげて「みゃー」と鳴きます。そのウルウルしたまなざしの愛らしさに、抵抗できる人は誰もいません。大急ぎでスーパーに駆け込んで、キャットフードを買いました。どのブランドがお好きか判らないので、全種類買いました。レジの女の子に、「猫ちゃんがお好きですね」と話しかけられ、「まだ分かりません」と訳の分からない返答をしてしまいました。一夜明けて庭のサッシ戸を開けると、大小様々かつ多種多様な猫ちゃんがずらりと横並びに約十匹、僕が目覚めるのを待ちわびておりました。可愛さ盛りの子猫ちゃんは「オトリ」だったのですね。それからはおとりちゃんと名付けて可愛がりました。

 風呂は建物の老朽化で使用不能となっており、近くの銭湯に行きました。帰りには酒屋の地下の立ち飲み居酒屋で、豊富な壁張りメニューの中から好きなものを選んで、裏渋谷のレトロな情緒を楽しみました。国道246号を地下通路で渡って殷賑な百軒店周辺を歩けば、鯵フライを揚げてくれるおばあちゃんの店があったり、ムルギーカレーの店があったり、レトロな渋谷の味が楽しめました。そのルートを辿って円山町の坂道を下れば東急デパート本店。その傍らには、北海道料理を出してくれる小さな店があって、毛蟹も安く食べられるので、仕事仲間で宴会をしたこともあります。そのまた近くに無口で不愛想な親父がやっているトラットリアがありました。昭和60年代に建てられたビルの地下が飲食街で、高いテナント料に耐え切れず空家ばかりで、そのトラットリアだけはひっそりと営業しておりました。その店は他に取柄はないのですが、自家製ソーセージが秀逸でした。予約もなくフラリと訪れて、赤ワインのカラフとその名物の自家製ソーセージを頂くというのが、僕のルーティーンでした。立派なピザ窯もあったのですが、他のお客も大抵は僕と同じメニューで満足していました。そのうちに親父が亡くなって、その娘さんが経営権を握ることになりました。美人だけどどこか棘のある暗い女で、名物のソーセージだけの注文は受けられない、つまり最初にコースで注文して欲しい等と、とんでもない事を云い出しました。ひとり酒は、好きなものをちょこちょこ注文しながら、シメは何を食べようかな?と思い巡らすのが酒飲みの骨頂ですよね。僕が行かなくなって半年ぐらいで、その店は潰れました。あまり商売気を外に出すと失敗することが多いです。その店がいくら美味しくても、気持ちよく食べさせてくれないと長続きしません。渋谷飲みのオールド・ファンたちの間で忘れられないのが、109の裏手の「玉久」です。ここは格別でした。木造平屋建てがあの渋谷の一等地に古色蒼然と存在し、その寂寞感だけでも、まるで明治時代にタイムスリップしたみたいでした。予約は取らずいつも行列ができていて、一時間待ちはザラでした。大分儲かったのでしょう。平成になってから建物は無残に取り壊され、跡地にペンシルのようなビルが建ち、そこの最上階で新規オープンしました。ちょっと覗いてみましたが、「貧乏人お断り」という風な店造りで、入店せずに逃げました。消防署の指導もあり、木造平屋建てをあの場所で維持するのは何かと大変だったのかもしれませんが、きっと金融関係社と建設会社がグルになって無垢な若旦那を口説いたのでしょう。天上人となった渋谷の名物酒場は、2020年に閉店しました。

  桜丘時代にもっとも多く通ったのが、井の頭線の旧改札口近くの「森本」です。お爺ちゃんがご主人で、この「ゑびす堂便り」の愛読者でした。僕が浅草に来て暫くして亡くなってしまいました。渋谷に用事があると必ず立寄っていましたが、船頭を失った船が漂流するように、徐々に味の生彩を欠いてゆき、客のあしらいも悪くなり、足が遠のくようになりました。

 街が賑やかで、バブリーになって来ると外からの投資が盛んになり、個人経営店のほとんどが外食チェーンの経営店になって、やがて開発という魔の手が忍び寄って、かつての景観を壊してゆきます。資本主義なのだから仕方がないのかもしれませんが、パリやロンドンはもっと上手くやっていると思います。建築家は「古い家を修理するより、サラ地にして新たに立て直した方が安上がりだ」と言います。でも古い家にはいろんな歴史や何世代も住んだ人達の魂が遺っていて、それが何とも言えない情緒を醸し出して、僕たちに語りかけるのだと思います。

 映画「マルサの女」で一斉を風靡した故・伊丹十三監督は、1960年代には外国映画「北京の五十五日」や「ロード・ジム」の出演でパリやロンドンやマドリードでアパートを借りて、俳優仲間を招いてスキヤキパーティをやったりして優雅に過ごしていました。帰国して渋谷の街を歩いた時、侘しくて涙が出たのだそうです。彼が現在の渋谷をご覧になったら、何とおっしゃるか?興味のあるところですが、ガラス張りでピカピカと眩しくて落ち着かない、と苦言を呈されるかもしれません。人間が住む処は、水辺があったり森があったりして、自然との共生がなくてはいけません。桜見物で人気の渋谷川もコンクリートで固められて、泥鰌っ子も鮒っ子も住んでいません。

 夕方になってもお腹が空かなくて、ちょっとしたおつまみで一杯飲って、仕上げにさっぱりしたラーメンを食べたい・・・こんな日がたまにありますよね。そんな日は文句なしで公園通りの「チャーリー・ハウス」へ直行です。「チャーリー・ハウス」って店名を聞くとなんだかハンバーガーやホットドッグの店みたいですが、ラーメン屋さんです。カウンターだけの小さな店でビールを注文して、焼豚や手羽煮を食べて、仕上げはチャーリー・トンミンです。すっきりとした味のスープには、白髪葱がちょっぴりのせてあるだけです。麺は極細麺。老夫婦で経営されていましたが、ご主人が亡くなって、しばらくはお婆ちゃんがバイトの青年たちを使って頑張っていましたが、とうとう閉店になってしまいました。最後の日にたまたま居合わせて、お別れのスピーチをしました。

 NHKの西玄関の近くにあったのが「うな将」です。ご主人は手拭でハチ巻をした気さくな大酒飲みで、僕がのれんをくぐると、すぐ酒盛りです。料理人としての腕は確かで、肝焼きや鰻丼は絶品で随分通いました。事前に相談しておくと、河豚鍋等も作ってくれるので、外国人を連れて行った事もあります。浅草に引っ越してしばらくご無沙汰したあと行ったら、閉店しておりました。多分ご主人がお酒の飲みすぎで、亡くなったんじゃないかと言われております。

 その後しばらく鰻難民を続けていましたが、若い頃通った銀座の「ひょうたん屋」が、場所を変えてやはり銀座で営業していることが分かり、嬉しく通っています。ご主人の徹ちゃんは、「うな将」の親父みたいに、僕の顔を見るなり酒瓶を持ち出してカウンターから出てきたりしないので、しばらくは大丈夫なのではないかと思っています。

2022年11月26日 脱稿

Posted by hide-san