さらば、わが『りき』

 繰り返される緊急事態宣言で、居酒屋は大変ですね。もう10年前に書いた文章ですが、僕らが愛した浅草の名物居酒屋について聞いてください。

 浅草ので生活を始めた頃だったので、1994年のことだったと思います。地元の人が
「どうです? 旨い酎ハイを呑みにいきませんか」
と誘ってくれました。僕が
「酎ハイなんか、どこで呑んでも同じじゃありませんか?」
というと、その人は
「いやいや、そこの酎ハイは全然違います」
と言うので、僕もぽんたも興味津々となり、さっそく連れて行ってもらうことになりました。僕らのアパートメントのある千束通り商店街のアーケードを北に歩いて、スーパーの所を右に曲がると、次の角に大きな赤い提灯が見えました。空襲でこの辺りはほとんど焼けてしまったと聞いているので、その木造モルタルの家屋はおそらく戦前すぐに建てられたものなのでしょう。郷愁をそそる古い二階建ての家です。その角にへばりつくように、その居酒屋はあります。年季の入った破れ提灯に、店名の『力』と書いてあります。僕が、
「これって”ちから”と読むんですか?」
と尋ねると、
「いや”りき”っていうんです」
とその人は教えてくれます。縄のれんを分けてガラス戸を開けると、狭い店内の左側が小上がりで飾り気のないデコラ張りの折り畳みテーブルが二つあり、そこはもう満卓です。ラッキーなことに右側の小さなカウンターに数席空きがあって、僕とぽんたは断られないか?と恐る恐るそこに座りました。カウンターの小棚の上のボウルに、レモンが山のように置いてあります。短髪で小柄だけどがっしりした体つきのオヤジさんは寡黙ですが、僕にはそう気難しそうに見えません。腕を伸ばしレモンを掴むと、カウンターの向こうでそれを切って、レモン絞りで絞っている様子です。小上がりの先客たちも、その酎ハイを呑んでいたようです。オヤジさんが僕らの酎ハイを作っている間にも、先客たちから次々に酎ハイの注文が入り、オヤジさんは休む暇もなくレモンを絞り、氷をアイスピックでかいて、その間も、刺身を切ったり、外の小窓に面したガスレンジの上の厚揚げやもつ焼きをひっくり返したりと、大忙しです。カウンター席からはオヤジさんとの距離も近いので、その気合がビンビンと伝わってきます。やがて大きなグラスに酎ハイが並々と注がれ、受け皿に乗せられてカウンターの上に置かれました。大ぶりのブッカキ氷とピチピチ弾ける炭酸、それに強い生レモンの香りが、期待に胸を膨らませて待っていた僕らの鼻腔を刺激します。受け皿にも酎ハイがこぼれて溜まっているので、そっとグラスを持ち上げて口に含むと、それは野生的でなんとも言えない煽情的な味です。グラスに少しスペースができると、受け皿にこぼされた酎ハイを注ぎ入れなければなりません。一滴も無駄にはできません。アルコール濃度はかなり高そうですが、レモンの搾り汁とのバランスが絶妙で、すんなり喉を通ります。僕もぽんたも、それまで酎ハイというものを呑んだことが無かったので、
「世の中にこんな旨いものがあったのか!」
とかなり衝撃を受けました。
 それ以来、ホントによく通いました。夕方になるとあの酎ハイの味が恋しくなり、仕事を終えると連れ立って『りき』の赤提灯を目指しました。その頃は千束通りを入った両側は、まだ花街の面影を色濃く残していて、薄暗くなって提灯や看板に火が灯ると幻想的でした。料亭の前には黒塗りの乗用車が並び、日本髪の浅草芸者さんたちも見かけました。グループで散策する背広姿の酔客たちともすれ違い、街に勢いがありました。そんな昭和の香りに包まれながら、『りき』のカウンターで僕らは酎ハイを呑み続けました。そのうち一杯目を呑み終わり、二杯目を呑むと少し味が変わっているような気がする時があります。それにオヤジさんは、レモンの他にグレープフルーツを使ったりしていました。だからレモンの酎ハイは淡い黄色をしていて、果肉の赤いグループフルーツを配合するとまるでロゼワインのようなピンク色で、そのバリエーションを愉しむことができます。『りき』は料理も美味しくて、いろんな友人たちを誘いました。外国人も連れて行き、常連客には人気でした。テレビの取材も来ていましたが、その度にオヤジさんは断っていました。そんな”取材拒否の店”だったのです。
 そのうちに
「その酎ハイを、我々も作ってみようではないか」
ということになって、オヤジさんにレシピを聞いてみるのですが、教えてくれません。オヤジさんは靴職人だったと聞いていたので、
「技は習うな、盗め」
という意味に理解しました。ところがカウンター席からは小高い棚の上に、さらにボウルに入った山盛りのレモンが置いてあるので、オヤジさんがその名物酎ハイを作る手元は全く見えないのです。ぽんたが焼酎の銘柄を盗み見て、”宝焼酎・甲種”ということだけは判明しました。その宝焼酎・甲種とレモンと炭酸を買ってきて、レモンを絞って作ってみたけど、『りき』の酎ハイとはほど遠い味なのです。
「やっぱり、何か作り方にコツがあるんでしょうか?」
とか
「いや、あれは僕たちの見えないカウンターの陰で、オヤジさんは何かを加えているのではないか?」
とかいろいろ詮索しては、行くたびにオヤジさんに誘導尋問をするのですが、
「いや、そんなことはないよ」
と言うばかりで、相手にしてもらえません。
 その『りき』の更に奥深い場所に『博多』という皿うどんとちゃんぽんの美味しいお店があって、そこにもよく通っていました。そこを訪れる時は、『りき』で一杯飲って、フラフラと『博多』まで歩き、皿うどんとちゃんぽんをぽんたと分けて食べるというコースでした。餃子も美味しい店でした。その夜がどういう状況だったのかよく憶えていませんが、直接その『博多』に行ったことがあって、注文した餃子やちゃんぽんや皿うどんを待つ間、酎ハイを注文しました。そこのカウンターは低いので、女将さんの手元がよく見えます。所在なさげに見ていると、グラスに氷をいれてから、焼酎を注ぎ、櫛切りのレモンを軽く指先で絞り入れてから、そのレモンをグラスに入れ炭酸を注ぎました。なんの期待もなくその酎ハイを口にすると、これがなんと、『りき』ほどのインパクトはないにしろ、ほんのりと『りき』の味がするのです。さっき見たとき焼酎は宝焼酎・甲種を注いでいたので、残るは炭酸しかありません。
「ちょっと、その炭酸見せて」
とお願いすると、女将さんは怪訝そうに炭酸の瓶を手渡してくれました。見ると今までみたこともないブランドでAzuma Tansanとローマ字の表記です。その小ぶりでなで肩の瓶をぽんたに手渡すと、
「製造元は近くですね」
と瓶に表記してある印刷を読み取ります。住所は吾妻橋を墨田区側に渡った辺りです。翌朝ぽんたと捜索隊を編成して急行すると、そこは小規模な飲料メーカーで、その謎の炭酸の瓶がプラスチックの運搬ケースに入れられ、店内に山積みされていました。僕はまるで永い苦難の旅の末に、ついに宝物を発見したインディ・ジョーンズになったような気がしました。購入を申し入れるとあまり愛想のよくない係の人から、
「小売りはね、やっていないんだよ」
とあっさり断られてしまいました。それで町内の酒屋さん経由で仕入れてもらい、ケースで配達をしてもらうことになりました。その炭酸で酎ハイを作ってみると、それは紛れもなく『りき』の酎ハイの味です。人体実験を繰り返しているうちに、レモンを強く絞り切ると皮からの苦味も加わって、ますますあのストロングな『りき』のオヤジさんの味になることも解りました。そんな謎の炭酸を届けてくれていた酒屋さんも廃業してしまい、ゑびす堂時代になって「店舗だからね」という資格を得てメーカーからの直接配達が叶い、今日に至っています。
 先日ももちゃんをディープな浅草を案内する機会があったので、アパートメントでは定番となっている酎ハイのルーツを見せておこうと『りき』に行ったら、既に閉店してしまっていました。聞けば昨年オヤジさんが病気になられ、さらに震災があったりして、高齢だったしそろそろ潮時と思われたのでしょう。ここ数年は立石の『宇ちだ』の発見もあって、ご無沙汰していたとはいえ、無くなってしまうとショックです。『りき』での楽しかった思い出も、一緒に何処かへ運び去られてしまったような喪失感を感じます。謎の炭酸を発掘した『博多』も、『りき』に先立って閉店しました。でも名物の酎ハイは”浅草酎ハイ”と命名され、脈々と継承されています。アパートメントでの集まりの時は、ポンタは料理で忙しいので、女の子たちがレモンを絞り、氷をグラスに入れ、宝焼酎と炭酸を注いで作ってくれます。レモンの搾り具合や配合で、それぞれに作ってくれた女の子の味がします。花火大会の時はさっちゃんが、タイから来たレックちゃんにレモンを絞らせ、
「搾り1年!」
などと厳しく指導しておりました。
2011年9月23日脱稿
 


Posted by hide-san